昔から自転車にばかり乗っていたのだが、別に自転車が好きだから乗っていたわけではなく、単に時間が大量に余っていたから乗っていた。 自転車は移動手段としてよりも、時間を潰すための道具として活用できる。傾向としては、南と西に行くことが多かったといえる。
なぜか、北や東に行くと、気分が重苦しくなる。地域の特性として、南が開発途上地帯であったので、人家がまばらになる傾向が嗜好と合致したのかもしれない。それと、南の方が平地だったので、それの影響も考えられる。山地に行くと気分が重苦しくなる。
自転車で走る醍醐味は、個人的に言えば、景色を鑑賞することや、体を鍛えることや、爽やかな汗を流すことにあるのではなく、むしろ、殺伐とした感情を養うことにある、と感じる。
夜の7時ごろに、自宅から数十キロ離れた、見知らぬ都市のモスバーガーの座席に座って、オニオンリングを食べ、コーラを飲んでいると、かなり不安になってくるし、前途に徒労と殺伐感しかない、という感じが迫ってきて、独特の味わいがある。
モスバーガーから出たら、車が大量に通る国道沿いを、数十キロも走って帰らなければならないのだが、その道の中途には楽しみは存在しない。夜中で暗く、景色の鑑賞のしようもないし、自宅に帰っても深夜で、寝るしかないから。
しかも、これが車だったならば、車の装甲によって庇護されることや、カーステレオを鳴らすことにより、多少殺伐感を軽減できるのだが、自転車であれば、外気に晒され、気を紛らす娯楽も存在しないので、いっそう殺伐感が強まる。
バイクであれば、疾走感を感じることが出来るだろうが、自転車であれば遅々として進まない道のりに苛々させられるだけである。
そのような寒々とした感情を涵養する道具として、自転車は非常に有用といえよう。
自転車で遠くに出かけることにどういう興趣が在るかといえば、もうひとつある。
自転車で遠く(自宅から数十キロ離れた)の住宅街の公園などに出かけ、そこでしばらく立っていると、「もうここには自分の生命がある限りでも二度と来ない」ということを頭の中で考えられる。
実際適当に選んだ道筋を通って適当にやってきた住宅地に、一生のうちでもう二度と来る事はない。
それはごくたまにしか考えられないし、いつも見知らぬ土地で感じられる、というわけでもないが、それを考えられているときは、自己の有限性と人生の短さ、そして全く顧みられないような景色に「二度と来ない」という感情を加えることによって非常に得がたいものを見ているような気持ち(なにしろその景色は一生のうち一回しか見れないから)、を味わえる。
たぶん一生自分はナイアガラ大滝もグレートジンバブエもトンブクトゥも見ないのだが、その代用物として自分の行状を見つめていく。
(2007年04月11日21:21 + 2007年07月02日23:06)改