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カテゴリ:普遍的なこと [2012年02月29日 21時37分]
hasu111

1 地理の研究のために他分野の手法を使う

 

 人文地理学会に行く,人文主義地理学の本を読むなどして感じたことは,他分野の研究手法を地理学に適用できるということである。例えば,

 

地理+経済学=計量地理学

地理+社会学(ライフヒストリー,アンケート)=人文主義地理学

地理+自然科学=自然地理

 

 むしろ,他分野の研究内容から「分布」「空間」という要素を取りだして編集したのが地理学,というべきなのだろうか。

 このように,他分野の手法を適用することで,研究の手法とすることができる。その他分野の手法を探す必要がある。

 

2 資料の分析には統計学の手法を使わねばならない

 

人文主義地理学における問題点として,文章の分析方法が恣意的だということがある。例えば,滝波や寺本は,文章を集めて分類しているが,そこで「分析」として行っている作業には明確な基準がなく,手法が曖昧である。

統計学では,内容分析という技法がある。クラウス・クリッペンドルフ『メッセージ分析の技法 「内容分析への招待」』によると,社会学で文章を分析するには厳密な基準がある。

まず,サンプリング(対象の抽出)から「層化抽出法」「クラスター抽出法」など,いくつかの手法がある。また,それを分析する手法にもいくつかの科学的な方法がある。①ある言葉が出てくる頻度を数える,②文脈的分類法(文章を主語・述語に単純化),…など,「分析」には型がある。さらに,そうやって得たデータが「信頼性」と「妥当性」を備えているかチェックせねばならない。

このように,収集したデータは統計学の方法論に則って科学的に「分析」しなければ,恣意的なものとなる。

だから文章を分析しようとしたら,サンプル抽出段階から統計学の手法をどれか使わねばならない

 

3 イコノロジー,写真論

 

 今回は絵画論からイコノロジーを選び,それを地理に適用することを考えた。バルトの写真論も読んでみたが,こちらは手法が直感的すぎて科学的ではない。バルトは「ストディウム」「プンクトゥム」という言葉を用いて,写真から受ける印象を記述している。(『明るい部屋』)

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テキストマイニング

カテゴリ:普遍的なこと [2012年01月12日 23時04分]
 一月に一回は何か書かないとスポンサーサイトが表示されるので何か書く。ちかごろは全く神社に対する情熱が閉ざされて,寺を見に行こうと思っている。こないだ仁和寺に行ってきたら,広かった。

miidera
 ↑三井寺のゆるキャラ

 さいきん興味を持っていること

・テキストマイニング

・Jaccard係数

・非線形現象

 これらの物事に興味のある人は何かコメントください。

 あと,この話がおもしろかった http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3795/
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多変量解析

カテゴリ:普遍的なこと [2011年12月13日 20時13分]


サンプリング
 ↓
内容分析

メッセージ分析の技法―「内容分析」への招待 (Keiso communication)メッセージ分析の技法―「内容分析」への招待 (Keiso communication)
(1989/08)
クラウス クリッペンドルフ

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 ↓
数量化
 ↓
因子分析

多変量解析 (図解雑学)多変量解析 (図解雑学)
(2005/01)
丹慶 勝市

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多変量解析→重回帰分析,因子分析,…
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人文地理学会

カテゴリ:普遍的なこと [2011年11月17日 23時21分]
akuwasomayama5

人文地理学会行って思ったこと

・地理は1次情報を寄せ集めて編集する作業であって,なんでも地理になる 何をしてもいい,という気楽さはあるが,やっていることは他分野の研究内容から空間という要素を抜き出してそれを中心にまとめたコピー&ペースト的なところがある。

 ある発表は,地理的要素が薄いと指摘されていた。それは地理の内容ではなくて,社会学の内容ではないかということである。このように,他のものは何でも地理になりうるが,それは対象の一部分(空間という部分)を切り取って編集しただけである。

・地理の独自性といったら,分布 が挙げられる また,空間のゲシュタルト的解釈として,部分に分解できない空間の理解を目指す方向性もありうる 後者はよくわからないけど一応理屈としてはそういえる。

・地理の立場として,防災の専門家になることを放棄して,町医者的な立場から防災への提言を,といっても,それは地層学(地震の原因解明)や建築学(地震に強い建物設計),経済学(防災のための経済活動)などと比べると見劣りする立場である 器用貧乏ということではないだろうか。


 単独の場所を取り出して分析しようとすれば,その手法は経済学や社会学,自然科学に頼るしかないわけで,地理はそれらの成果を抽出して記載した地誌になり,二番煎じである。
 だから地理が独自性を出そうと思ったら,分布を示すことによって,その地域がもつ,全体の中での相対的な位置を示す,ということがありうる。
 もうひとつは,部分に分解されない(=ゲシュタルト的),全体としての場所の解釈を目指す,という方向性がありうる。たとえば,机の上にミカンが置いてある写真があったとする。机の上からミカンがなくなった写真と,それとは別物である。このように構成要素が欠けることによって,場所は違った意味を持つ。それはただ一つの要素が欠けたということではなくて,全く別物となる。理屈としてはゲシュタルト的というのはわかるんだけど,それをもとに場所を理解するとはどういうことか勉強してないからわからない。
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自分主義地理学(Meism Geography),ゲーム内地理

カテゴリ:普遍的なこと [2011年09月15日 22時34分]
tuukoudome1

 何か分析しようとか系統立てて整理しようとかいうときに,一番大事なのは自分で,なぜならそれは別に自分が特別な存在だからとか,他人を軽んじているから,とかではなくて,最も継続的に興味が持てるから,という題材としての執着の度合いが強いことによる。たとえば那須高原とかアメリカのプレーリーとか(ここでは適当に取りだしたが)に対して強い執着を持つのは経済的な理由によるとか(分析が金になる),上からの命令によるとか,何らかの外からの強制による動機が考えられるが,自分の軌跡について考えるのは,損得とは別の,内発的な興味による場合がある。

 だから毎日自分のことを考えることができるし,過去への執着や後悔,または人生の恐ろしさという形で自分の行状が想い起こされるのなら,そのとき自分が占めていた場所の属性についでに視点を広げたならば,場所の属性を扱う,という地理学の内容になるため,これを「自分主義地理学」(Meism Geography)と呼ぶことができる。

 人間を中心に地理を扱うといいながら,他人の分析ばかりしている人文主義地理学とは一線を画する概念として自分が考案したので,真似しないでください。

 李斯という人の話に,ネズミは住む場所によって様子が違ってくるというものがある。便所に住むネズミはおどおどして痩せており,米蔵に住んでいるネズミは堂々として太っていることから,人もそれと同じで居る場所が大事なのだという教訓が出てくる。

 場所という概念の属性を,そのように社会的な階層や地位にまで広げて,それを地理と呼べるのならば,さらに自分を地理的に分析することになる。たとえば大学生ばかり住んでいる安アパートに居る自分であれば,そのような属性を持っている。もっと進めて言うと,自分という動く者も,地理の構成要素であり,それは例えば岩山が10万年周期で北から南へ動くことによって地理の様相を変えるように,瞬時にして入れ替わる地理の要素として自分がある。

 また,このとき重要になってくるのが,「ゲーム内地理」(Geography In Game)であって,自分の意識が占めている場所は必ずしも地表上のものではなく,ゲームのROMカセットやパソコンのサーバーの中のものである場合がある。オンラインゲームのMAPが計量主義地理学の手法によって記述可能なのはすぐわかるが,そのほかにも,アクションゲームの1地点すら地理的情報を蓄えており,それを自分の意識が占めているというのであれば,自分とのかかわりで地理を記述することができる。

 これは切実なことで,たとえば自分とかかわりの無い遠くの地理よりも,ゲームのマップのどの地点でどのような展開があり得るのか,のほうが重要な地理的問題となる。
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昔の場所のよくなさ

カテゴリ:普遍的なこと [2011年09月15日 21時59分]
tamagawakasenjikidensya

 昔訪れていた場所を訪れると,必ずしも肯定的な気分になるわけではなく,むしろ嫌な気分になるのだが,それがどうしてか考えてみる必要がある。

①昔より歳を取ったということ
 たとえば5年前に訪れてタイ焼きを食べていた公園に行って,またタイ焼きを食べたとする。その場合,自分は5年分歳をとっており,その分死亡に近づいているため,めでたい感じは受けない。取り返しのつかなさが明らかになる。

②必ずしも時間の経過が望み通りに行かなかったこと
 たとえば5年前に訪れたところがあったとして,そこから時間が経った分,自分の属性がその当時の望み通りになったかというとそうではなく,肯定的に見ようとしても当時の見通しからはとても肯定的に見れないという場合,昔の場所で感じられるのは現時点への否定的な考え方になる。

③昔を振り返ることは未来に対して有効ではない場合があること
 昔の場所を訪れて過去の記憶を思い出すことが,別に未来への投資となるわけではなく,過去に拘泥することで将来へ割くべき力を分散させ,不利になるおそれがある。

④ついこないだのように感じると逆に時間が立ちすぎた感じがする
 たとえば5年前に訪れた寺をまた見たとき,つい1月前に見たような気がしたとする。だが実際は5年もの時が経っていて,その5年という長い年月が1月にしか感じられないのならば,これからもそのように大変な速さで時間が経っていき,老化したり死んだりすることになる。

⑤そもそも昔その場所を訪れた時点で幸せでなかった
 幸せでなかったときに訪れた場所をもう一度訪れても,思い出すのは不幸せなことばかりで,別に楽しくない。

⑥今が幸せでないから昔を思い返しても幸せではない
 たとえば,昔は不幸だったけど,今は幸福だとする。そうした場合,昔はひどかったけど,それも今から思い返せば一つの経験だった,と思える。だが今も不幸だったか,むしろ昔よりひどくなった場合,昔を思い出すと,昔の方が(可能性があった分)ましだったと考え,嫌な気持ちになる。



 無意志的想起というのは感じられるのか感じられないのか不確かな内容だし,主観的なものなので,そうではなくて,実際に過去の場所へ行って思い出したことなどを書きつづれば,客観的な内容になる。
 場所が詳細な自叙伝を書くための道具になるのだが,そこから見えてくることというのは別に,幸福感ではなくて,嫌な感じであるおそれがある。
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『失われた時を求めて』について

カテゴリ:普遍的なこと [2011年07月23日 12時13分]
humurogoou3

 数年前図書館に通いながらプルーストの『失われた時を求めて』を読んだのだが大分苦労した覚えがある。随分つまらない話だと思った。

 筋書きそのものには全然興味が持てず、ヴェルデュラン婦人やシャルリュス男爵が延々と社交を繰り広げているな、としか思えなかった。筋は殆ど覚えていない。
 だが、時折、人生に対する考察のようなものが文章に混ぜられていたので、その箇所に付箋を貼っておいた。

 それらの箇所の中で、最も印象に残ったのは、第七篇「見出された時」の中での、記憶に関する考え方だった。ちくま文庫の『失われた時を求めて』10巻の320頁付近でそれについて話されている。
 引用するのも迂遠なので、自分なりにまとめるとすると、大体このようになる。

①我々が人生について把握する際、それは記憶を通して行われる。記憶の積み重ねによって大体人生の内容を把握している気になる。人生がつまらないものだと判断されるのなら、それは記憶の不完全さによる。
②人間の記憶は一面的で、人生の真の姿の一面を取り出し、それを取り囲んだ諸要素を切り離したものに過ぎない。だから、それらの記憶の積み重ねによって人生を把握していると思っていても、それは不完全な把握であり、まがいものを見て把握したと思い込んでいるに過ぎない。
③だが、何か(例えば触覚や嗅覚や味覚)を媒介として、突如として、一面的でない記憶を把握できることがある。それにより、人生の真の姿を把握できる。そこに幸福がある。

 かなり雑なまとめ方であって、特に③の部分は自分が誤解しているのではないかと思うが、とりあえず自分なりに暫定的に書くとするとこういうことになる。
 でも専門書などを読めばもっと穿った解釈がされているに決まっているけど。そういえばこないだ読んだ本の中では、プルーストは時間の外に出ることにより時間から開放される手法を示したのだ、というようなことが書いてあって、それも少し半理解状態ながら納得させられるような気もする。

2007年05月19日21:09


 無意志的想起という話が、人文主義地理学に使える。プルーストではマドレーヌによる味覚や嗅覚でそれが起こる、という話ばかりが有名だが、庭の敷石にけつまずくことでもそれが起こるという個所がある。場所が無意志的想起に関連しているので、それを自分で追及し、さらに追及の仕方を定型化すればそれらしくなる。
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アフォーダンス

カテゴリ:普遍的なこと [2011年06月14日 23時50分]


 ある日突然部屋を訪ねてきたS氏が携えてきた紙には「アフォーダンス」と書かれていた。このWeblogを読んで、このような題材であればアフォーダンスの知識が必要であると考え、伝えに来たという。
 そのため、アフォーダンスについて知らねばならなくなった。このように、知る必要があることはすぐに知らねばならない。なぜなら、明日にも心臓発作で死ぬかもしれず、それなのに物事を後回しにしていると何もなしえないうちに死ぬから。


※佐々木正人『アフォーダンス新しい認知の理論』岩波書店1994 を参考に

 まず基礎として、「生態学的認識論」がある。それは、以下の考え方である。
 情報は人間の内部ではなく、人間の周囲にある。周囲にあるものは、刺激ではなく情報である。人間は五感によって刺激を感じ、それを脳内で情報に加工する、というのが「情報処理モデル」だが、「生態学的認識論」では、人間は情報を直接周囲から受け取る、とする。
 その受け取り方が、「アフォーダンス」である。アフォードaffordは「~ができる」という意味である。アフォーダンスは、受け手が感じる、「~できる」という情報である。たとえば、うすい紙からは、破ることができる、というアフォーダンスを受け取る。このように、動物は周囲から直接情報を受け取っており、刺激を脳内で情報に加工しているわけではない。

○感想
・アフォーダンスは、「できる」という情報であって、「さびしさ」を感じるということとは違うようだ。
・しかし、情報が外部に存在する、という考え方は場所に相対したときの感じ方に応用できる。
・人間は、外部から受けた刺激を内部で加工して感情にしている、とすれば、内部の情報加工を明らかにせねばならず、手間が要る。
・そうではなくて、人間は、さびしさを周囲から直接受け取っている、とすればアフォーダンスの応用になる。たとえば、人間は経験を積むことによって、河川敷や墓地から、直接「さびしさ」を受け取ることができる。
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t

Author:t
男性。詳しくは自己紹介で。
mixiの所在
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