祭神について書くとき

カテゴリ:祭神 [2009年10月24日 21時00分]
 全くコメントが付かなかったので、一旦「能登独自の祭神」カテゴリを中断する。コメントが付かないということもあるが、県立図書館から借りた本を使って書いており、返却期限が来たので一旦返却することにした。そうするとしばらく祭神について書けない、という理由もある。次回のために、今回借りた本の目録を作っておく。

※ 『能登志徴』
 明治の郷土史家・森田柿園が書いた能登の歴史。地域ごとに分けて書く方法がとられている。

※ 『能登名跡志』
 江戸時代の太田頼資が書いた能登の旅行記。安永6年というから1777年のこと。

※ 『続能登路の旅』
 江戸時代の紀行文をいくつか収録。その中で、「能登の海」という紀行文が参考になる。

※ 『神道大系 神社編 若狭・越前・加賀・能登国』
 森田柿園が書いた県内神社の調査、神社の由来書き、江戸時代の式内社考察「式内等旧社記」を収録。

※ 『加越能寺社由来』下巻
 神社の由来書きを収録。

※ 『式内社調査報告』
 昭和60年ごろ、学者が式内社を調査した結果。非常に参考になる。

 あと、日置謙が書いた『石川県鹿島郡誌』、『石川県羽咋郡誌』、『石川県鳳至郡誌』、『石川県珠洲郡誌』もかなり参考になる。式内社調査報告にも書いてないような論社が書いてあったり、神社の由来書きが収録してある。ただし、県立図書館では『鹿島郡誌』が貸し出し禁止で不便だ。また、各市町村史にも神社の詳細な考察が載っていて便利。
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能登独自の祭神一覧

カテゴリ:祭神 [2009年10月22日 19時00分]
==珠洲郡==
No.式内社名称関連する祭神名
1須須神社 
2古麻志比古神社 
3加志波良比古神社 


==能登郡==
No.式内社名称関連する祭神名
1能登比神社 
2藤原比古神社 
3菅忍比神社 
4加夫刀比古神社 
5天日陰比神社天日陰比神
6鳥屋比古神社鳥屋比古神
7荒石比古神社 
8久氐比古神社
9能登生国玉比古神社 
10白比古神社白比古神
11伊須流岐比古神社 
12餘喜比古神社 
13阿良加志比古神社 
14伊夜比神社 
15御門主比古神社 
16宿那彦神像石神社


==羽咋郡==
No.式内社名称関連する祭神名
1相見神社 
2志乎神社 
3気多神社
4神代神社 
5羽咋神社 
6瀬戸比古神社瀬戸比古神 (附 黒川明神、素都乃奈美留命)
7手速比神社 
8椎葉円比神社椎葉円比神
9奈豆美比神社奈豆美比神
10諸岡比古神社 
11百沼比古神社百沼比古神
12久麻加夫都阿良加志比古神社 
13藤津比古神社藤津比古神
14大穴持像石神社
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藤津比古神

カテゴリ:祭神 [2009年10月15日 19時00分]
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藤津比古神社 (七尾市中島町藤瀬)

No.8
神名藤津比古神
吉田家本は「フチツヒコ」、武田本は「フチツノ」、
現在は「フヂツヒコ」
関連社名藤津比古神社 (七尾市中島町藤瀬)
備考現在の祭神は藤津比古神・熊野速玉神
当社を俗に「しんご」(新宮)とも呼ぶ

1 記載の収集
 記載は適当に旧字を新字へと改めています。

藤津比古神社 式内一座、釶打熊野神社相殿鎮座、旧伝云、往古以来、八町山奥雲見山鎮座之処、中古釶打熊野社為相殿、雲見山釶打山旧名也、(1)


藤津比古神社 式一座
祭神 藤津比古神
相殿 熊野大神
里俗、熊野ノ宮、或は新宮(シングウ)ト称ス、往古釶打山鎮座、治承元年
(※1177年)、熊野大神ヲ相殿ニ勧請スト、釶打郷内九ヶ村ノ惣社ナリ、(2)


当社熊野権現開闢者、何之御代 立来候茂不奉存候、(3)


○藤津比古神社 神名式に、羽咋郡藤津比古神社。三代実録巻廿四に、肥後国宇土郡正六位蒲智比神社前。河水変赤如血云々。といふこと見ゆ。蒲智は藤ならば、若は女男の神ならむか。

今里人の俗謡に、『釶打新ぐうのみやに、若いしらはのなまごろし。といにしへより唱へ来り、

いづれ此なる新宮は、彼熊野三所の内なる新宮の神を勧請せし事いちじるし。

又社伝に、藤津比古神社は景行天皇の御代に、今の社地より八町計山奥雲見山と云処に始て鎮座有て、熊野社とは別社なるを、中古合併して相殿に祀れるよしいへれど、証拠なき伝説なれば定めがたし。
(4)


藤津比古神社。字藤瀬に在り、郷社にして級津比古命、岩衝別命を祭り、式内社なり、社伝に拠るに、本社は景行帝の時の勧請にして、上古藤津比古神此土の諸妖を伐ち夷らげ、民をして刀剣を帯びて自ら守らしめしに、人民之を杣具に代用せり、釶打の郷名之に起因すと、本社の朔幣式は国土の平穏を祈り、大宮祭は農業の祖祭にして神輿の渡御あり、

(5)
◇以下より転載
(1) 『加能越式内等旧社記』承応2年(1653年)(森田平次が白山長吏所蔵の古写本を明治前期頃に謄写)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」10頁
(2) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」65頁
(3) 『加賀能登神社由来書上』(神道大系編纂会が加賀藩の保有資料を編纂したもの)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」299頁
(4) 『能登志徴 上編』218頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行
(5) 『石川県羽咋郡誌』1050頁 日置謙・編/大正5年 羽咋郡役所・発行

◇その他参考文献
※ 『式内社調査報告』285頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 石川県神社庁HP内 藤津比古神社

2 所感

 もともと、藤津比古神社は釶打山(なたうちやま)にあったようだ。承応2年(1653年)の『加能越式内等旧社記』にそうある。しかし、それ以後、当地の熊野新宮と合併し現地に鎮座したようである。現地はもともと羽咋郡で富来七箇郷のひとつ、釶打郷であったが、昭和22年に鹿島郡に編入され、その後中島町から七尾市へと所属が変わった。

 『能登志徴 上編』は肥後国宇土郡の蒲智比神社を挙げ、「蒲智」は藤のことだから、この神と藤津比古神は男女で一対の神ではないか、としている。しかし、遠く離れた国の祭神を結びつける考えは、疑わしく思う。だが郷土史家・森田平次の意見なので、尊重すべきなのだろうか。判断しかねる。

 神績として、「此土の諸妖を伐ち夷らげ、民をして刀剣を帯びて自ら守らしめしに、人民之を杣具に代用せり、釶打の郷名之に起因す」と『石川県羽咋郡誌』にある。また、国土の平穏、農業の保護にも神徳があるようだ。

 中世に熊野新宮と合祀されてから、藤津比古神の性質に変化は見られるのだろうか。このように合祀されたがために、神話が合成されるということも考えられる。また、その合成された結果であったとしても、広く人々の間に広まり、祭神の性質として認識されたのならば、それを祭神の性質として間違いはないだろう。祭神は客観的なものというよりも、主観的なものである。
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天日陰比神

カテゴリ:祭神 [2009年10月15日 19時00分]
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(A) 天日陰比神社 (中能登町二宮)

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(B) 天日陰比神社 (中能登町西馬場)

No.7
神名天日陰比神
九条家本、武田家本には「アメヒカケ」、『神祇志料』は「アメノヒカゲヒメノ」
現在は「アメヒカゲヒメ」
関連社名(A)天日陰比神社 (中能登町二宮)、(B)天日陰比神社 (中能登町西馬場)
備考(A)社の現在の祭神は屋船久久能智命・大己貴命・應神天皇、
(B)社の現在の祭神は、弥都波能売神

1 記載の収集
 記載は適当に旧字を新字へと改めています。

(A) 天日陰比神社 (中能登町二宮)

◎二ノ宮

此村天日陰比神社立給ふ。則二ノ宮大明神と云。神主船木氏也。其昔天子に唖の姫宮ありしが、此石動山へ籠り給ひしを祭り奉りし御神体也。
(1)


天日陰比神社 式内一座、朝日庄芹川村地内勝山鎮座、故称嶺上社、蓋中古乱世、社殿廃頽、神官・神人等悉散乱、依之合併ニ宮相殿祀之云、(2)


天日陰比神社
鹿島郡二宮村二宮社
同郡西馬場村等入合地雨乞社
右二宮村等ノ両社、式ノ天日陰比神社ナル由伝言シ来ルト雖、両社共口碑ノミニテ旧記等ノ確証モ無之、故ニ決兼候、
(3)


能州能登郡二之宮村二之宮明神、開闢者人王拾代崇神天皇、年数凡千七百七拾余年ニ罷成候、峯之社ハ天日比と申候、神前流之川ヲ天日川と申候、神前之前山ヲあまこ谷と申候、

貞享二年九月十五日
(※引用者注 1685年10月13日) 能州能登郡二宮村ニ宮明神神人 舟木若狭守(4)


○二宮神社 二宮村。○当社は今二宮明神と称す。

能登誌に、二宮大明神は、昔天子に唖の娘宮おはしまし、石動山に籠り給ひしを、祭奉るといひ伝ふとあり。此は元より処の里諺にてみだりごとなれども、
(5)

(B) 天日陰比神社 (中能登町西馬場)

○文化十四年(※引用者注 1817年)郡方調べ書きに、西馬場村に雷筒峯と唱申嶺有之候。式内天日陰比神社有之候。

○祈雨宮 貞享二年
(※引用者注 1685年)石動山神主清水等由来書に、西馬場・東馬場・上村三ヶ村之惣社祈雨宮。神体闇龗天日陰比神社之由に御座候。此霊地を雷筒峯とも又亀山とも申候。此山の姿自然に亀二つの姿にて御座候。

上古天子より祈雨宮を此処に勧請之由にて、

社号帳に、龍雲天日陰比神社と記載し来る故に、従前二宮の神官と式社の争論に及べり。但し互に証拠なしといへり。
(5)



◇以下より転載
(1) 『能登名跡志』96頁 太田頼資・著/安永6年 日置謙・校訂/昭和6年 石川県図書館教会・発行
(2) 『加能越式内等旧社記』(森田平次が白山長吏所蔵の古写本を謄写、明治前期頃)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」10頁
(3) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」71頁
(4) 『加賀能登神社由来書上』(神道大系編纂会が加賀藩の保有資料を編纂したもの)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」271頁
(5) 『能登志徴 上編』304、285頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行

◇その他参考文献
※ 『式内社調査報告』310頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 石川県神社庁HP内 天日陰比神社天日陰比神社

2 所感

 天日陰比神社論社は2社で、そのうち(A)中能登町二宮の論社は複雑な経緯を持つ。もともと当社は能登国二宮伊須流岐比古神社 (中能登町石動山)の下社であったが、芹川にあった天日陰比神社を相殿とした。のちに石動山上の伊須流岐比古神社上社が隆盛になったこともあって、下社は天日陰比神を主神とする神社に変化した、という経緯である。『能登志徴 上編』によると、「上代は高山の上に神社を置事はなく、白山などの如く遥なる麓に社を置たり」という。

 (A)社の天日陰比神についてであるが、里に伝わる話として『能登名跡志』に「其昔天子に唖の姫宮ありしが、此石動山へ籠り給ひしを祭り奉りし御神体也」とあるが、『能登志徴 上編』ではその話を「元より処の里諺にてみだりごと」として否定している。

 また石川県神社庁HP内の項目天日陰比神社によれば、「社殿後山の大御前峰社は以前天日陰比・(あめひかげひめ)神をまつり、又羽咋郡市及び七尾鹿島郡市の雨乞所であった。中御前峰社は崇神天皇及び印色之入日子命の御陵墓であったと伝へられている。辛酉61年目毎に羽咋、鹿島両郡の諸難退散祈願祭を斎行している。」となっている。やはり雨乞にご利益のある神のようだ。また、皇族の御陵墓があったと伝わることは、皇室との関係を示すものか。それに諸難退散にも利益があるのだろうか。

 ただし、現在では当社の祭神は、屋船久久能智命・大己貴命・應神天皇となっている。天日陰比神を屋船久久能智命と同一視することにしたのだろうか。こういうことは、やはり現地で神職に聞き込みをするのが一番である。しかし、なかなかそこまで踏み込めない。


 (B)天日陰比神社 (中能登町西馬場)では、由緒に変遷が見られず、初めから雨乞い社だったようだ。『式内社調査報告』が引く昭和18年の神社明細帳では、「人皇六十二代円融帝の御代、源順能登国守タリシ頃ハ国幣ノ御祭典アリ、旱魃ノ時ハ能登一群ノ祈雨祭を執行シ、一群挙ツテ尊敬ノ神社ニシテ、世俗雨ノ宮ト称シ」とある。周辺の雨乞いをつかさどる神社であったらしい。また、『能登志徴 上編』に「此山の姿自然に亀二つの姿にて御座候。」とあるが、これは雨の宮古墳の1号墳と2号墳のことであろう。昔は古墳と認識されていなかったのだろう。


 以上から総合して、天日陰比神を観念すれば、雨乞いに利益があって、皇室と深い関連を持つ姫神ということになる。
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白比古神

カテゴリ:祭神 [2009年10月14日 19時00分]
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白比古神社 (七尾市白浜町)

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白比古神社 (中能登町良川)

No.6
神名白比古神
吉田家本は「シラヒコ」、『神祇志料』は「シロヒコノ」、現在は「シラヒコ」
関連社名(A)白比古神社 (七尾市白浜町)、(B)白比古神社 (中能登町良川)
備考(A)社の現在の祭神は猿田彦大神だが、『石川県鹿島郡誌』では神社明細帳作成の際、誤って白比古神を欠いてしまったものと見ている。
(B)社の現在の祭神名は白比古大神

1 記載の収集
 記載は適当に旧字を新字へと改めています。

(A) 白比古神社 (七尾市白浜町)

此の入海の奥に直津村と云あり。此氏神は海より上り給ふ大石也、少彦名命の像石と云り。(1)


白比古神社 式内一座、三引保白濱村鎮座、称石船明神、今称白髭明神、(2)


邑伝ニ、白濱ノ邑名ハ神号ヨリ起ルト云、今里俗、白髭明神ト称スレト、寛永元年ノ能登紀行ニ、白濱村白彦神社アリ、海浜ナル岩舟ノ崎ト云岩ハ白彦神ノ故事ヲ伝承スト、又安永六年ノ能登路記ニ、白比古神社ハ大ナル宮森ニテ洲崎ノ山麓ニ鎮座スレト、元ハ山上ニ社殿アリシヲ、百年許前ニ今ノ地ヘ転社ス、神宝ハ石ニテ、此像石白濱村ノ海中ナル黒岩ト云嶋ヘ留リシヲ移シ祀ルト、今彼黒岩島ニ岩舟ト称シ船形ナル岩アリ、是像石ノ乗来リ玉フ御船ナリト口碑ス、

一説ニ、赤蔵神社ハ白比古神社ノ本社ナリ、
(3)


白比古神の御名外に見へたるものなし。神名帳に、三河国宝飯郡に赤日子神社といふもあり。古事記に、八瓜之白日子王、境之黒日子王といへる皇子の御名見へたり。記伝に、白とはいかなる所由の御名にか。若くは御兄の黒日子は色黒く坐し、白日子は白く坐せしにもやあらむ。

山上に御社ありし比は、海上の通船および馬上にて往来する者を咎め給ふにや。此麓にて通舟とどまり落馬する者折々ありし故に麓へ遷し奉りしとなり。今白濱・深見両村の産土神なりしに、若此両村に賊心の者などあれば、必とどめ給ふよし里人いひ伝へり。
(4)

(B) 白比古神社 (中能登町良川)

(気多大社についての記述から)
又毎年十一月中の巳の日は鵜祭とて、

同国鹿島郡中山の郷鵜浦村より鵜を取て捧ぐ。一宮まで十一里道の程あり、道すがら勧進す。処口本宮にて卯の日新嘗の祭礼とてあり。夫より良川村の宮にて一宿し、己午の日一宮にて清の祓あり、丑の刻に神前へ鵜をはなつ。
(1)


良川白山社

良川一村の産神也。今ハクサンと称す。或は式の白比子神社也とす。旧社のよしなれども、白比古神社たる証拠更になし。白山の名よりして白比古なりと云出たるよし。
(4)


◇以下より転載
(1) 『能登名跡志』87、7頁 太田頼資・著/安永6年 日置謙・校訂/昭和6年 石川県図書館教会・発行
(2) 『加能越式内等旧社記』(森田平次が白山長吏所蔵の古写本を謄写、明治前期頃)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」11頁
(3) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」77頁
(4) 『能登志徴 上編』480、272頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行

◇その他参考文献
※ 『田鶴浜の神社』8頁 田鶴浜町教育委員会・編/平成16年 田鶴浜町文化財保護審議会・発行
※ 『鳥屋町史』717頁 若林喜三郎・編/昭和30年 鳥屋町・発行
※ 『式内社調査報告』339頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 石川県神社庁HP内 白比古神社白比古神社

2 所感

 式内白比古神社の論社は二社あって、どちらも白比古神と関連があるが、七尾市白浜町(A)と中能登町良川(B)では、白比古神の内容が全く違う。(A)では、白比古神は海上より上陸した大石であり、(B)では「気多神社に奉祀せられる大己貴命の御子神で地方を平定開拓し生民安堵の途をひらかれた尊神」としている(『鳥屋町史』)。

 一体どちらが式内白比古神なのか、『式内社調査報告』でも決めかねているので、素人には決めようがない。また、どちらも確証がないので、双方式内社と無関係ということもありうる。とりあえずここでは、それぞれの祭神の性質を見る。


 (A)七尾市白浜町の白比古神は、「海より上り給ふ大石」であって、その大石の名は「少彦名命の像石」という。ここでわからないのが、少彦名をかたどった石が御神体なのに、それをなぜ白比古神と呼ぶのかだ。素直に少彦名神と呼べばどうなのだろう。それに、御神体は宿那彦神像石神社 (中能登町金丸)宿那彦神像石神社 (七尾市黒崎町)と関係があるのだろうか。それはそれとして、まず漂着神の性質を持っているとわかった。

 また、「白日子は白く坐せしにもやあらむ」ということで、神様の色は白いのではないか、と思われる。もしくは大岩が白いのだろうか。「此像石白濱村ノ海中ナル黒岩ト云嶋ヘ留リシヲ移シ祀ルト、今彼黒岩島ニ岩舟ト称シ船形ナル岩アリ、是像石ノ乗来リ玉フ御船ナリ」とあって、白比古神は岩でできた船に乗ってやってきて、白浜の沖の、黒岩(くるわ)という島に着岸したことがわかる。『田鶴浜の神社』によると、「この地点は石船崎で、今の黒岩です。黒岩にはタブの老木があって、根と枝がはびこっています」という。

 また、神績として、山上に鎮座していたときは、海上の船や陸上の馬の通行を邪魔したという。前を通るな、ということなのだろうか。また、白浜・深見両村によくない心を持つ者があれば、その心を押し留めるという。


 (B)中能登町良川の白比古大神は、気多大社の祭神、大己貴命の御子という。当社は、気多大社の鵜祭の際に、七尾の鵜浦からやってきた鵜が一泊する場所であった。また、他の祭礼でも気多大社と関連を持っていると『鳥屋町史』にある。
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瀬戸比古神 (附 黒川明神、素都乃奈美留命)

カテゴリ:祭神 [2009年10月14日 19時00分]
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瀬戸比古神社 (中能登町瀬戸)

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瀬戸比古神社 (志賀町直海)

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瀬戸菅原神社 (かほく市瀬戸町)

No.5
神名瀬戸比古神
九条家本は「セノヒコ」、武田本、吉田家本は共に「セトヒコノ」
関連社名(A)瀬戸比古神社 (中能登町瀬戸)、(B)瀬戸比古神社 (志賀町直海)、(C)瀬戸菅原神社 (かほく市瀬戸町)
備考A社・C社は現在では主に速秋津比古命を祀る、B社は素都乃奈美留命を祀る

1 記載の収集
 記載は適当に旧字を新字へと改めています。

(A) 瀬戸比古神社 (中能登町瀬戸) 関連

瀬戸比古神社 式内一座、高田保川尻村地内鎮座、称黒川明神或云荒魂社、旧伝云、往古羽咋郡界嶺上鎮座、中古移転於今社地云、(1)


瀬戸比古神社 式一座 (鹿島郡鳥屋町瀬戸、旧郷社)
祭神 瀬戸比古神
今、速秋津比古神トス
里俗、黒川明神、或ハ荒魂ノ社ト称ス、旧記縁起無之、故ニ社伝ノ来由未詳、旧神官無之、

古キ社号帳ニ、瀬戸比古神社、黒川大明神ト記載ス、今モ里俗、黒川明神、或ハ荒魂ノ社トモ称セリ、邑伝ニ、荒魂ト云ハ則瀬戸比古神ニテ、黒川明神ト云ハ相殿ノ神ナリト云、
(2)


里俗、黒川明神、或ハ荒魂社と称す。

邑伝に、往古郡界なる山の絶頂に社殿有しを、中古今の社地に移転するよし口碑す。

邑伝に、瀬戸比古神は荒魂にて、黒川明神と云は相殿の神なりと云。故に祭礼等の節、神饌も二膳宛供ふる例なりとぞ。

此地は山間の谷合にて、瀬戸は狭門の意なるか
(3)

(B) 瀬戸比古神社 (志賀町直海) 関連

直海白山神社

此社今里人白山宮、或は多武(タブ)の御嶽と呼べり。社伝記に、直海保多武御嶽鬼門社云々。

当社神幸時の雑歌『たふとき神のわざはひさけて幸ひうけよこみのたみよこみのたみよ。
(3)


字直海にあり、素都乃奈美留命を祭る、式内と称すれども異説あり、社伝によれば、崇神天皇の世に高志国造(※引用者中 越国造)と定められたる素都乃奈美留命を祭れるものにして、社傍にある親王塚と称するもの即ち命の墳墓なる、古より瀬戸比古神社と称え、養老二年三月命の後裔、素都初正麻呂益師その祠官となる、

而して社僧は別に鬼門除神社又は白山神社と唱へ、神官は式内瀬戸比古神社と称して両神殿となる。
(4)

(C) 瀬戸菅原神社 (かほく市瀬戸町) 関連

此社をば或は式内瀬戸比古神社といふは非也。按ずるに。鹿島郡一青庄内瀬戸村は羽咋・鹿島の郡堺にて、此村の黒川明神をば式の瀬戸比古神社也、といへり。此瀬戸村の隣邑に黒川村といふもありて、瀬戸村の社ともよしありげに聞ゆ。(3)



◇以下より転載
(1) 『加能越式内等旧社記』(森田平次が白山長吏所蔵の古写本を謄写、明治前期頃)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」11頁
(2) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」59頁
(3) 『能登志徴 上編』15、171、464頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行
(4) 『石川県羽咋郡誌』967頁 日置謙・編/大正5年 羽咋郡役所・発行

◇その他参考文献
※ 『鳥屋町史』733頁 若林喜三郎・編/昭和30年 鳥屋町・発行
※ 『式内社調査報告』241頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 石川県神社庁HP内 瀬戸比古神社瀬戸比古神社瀬戸菅原神社

2 所感

 そもそも瀬戸比古神の神績を明らかにすることは難しい。現在の論社が祀っている神名はいずれも瀬戸比古神ではない。では、論社が祀っている速秋津比古命や素都乃奈美留命を瀬戸比古神と同一視してもよいのか、というとそうもいかない。論社であっても実は由緒が式内社と無関係という事もありうる。だとしたら安易に同一視すると、瀬戸比古神の性質を見誤ってしまう。

 また、たとえ瀬戸比古神社に該当する神社だったとしても、長い年月の間に祭神に対する認識が変化しており、平安時代の人間がその神社の祭神に対して抱いていた認識と、現在の記録に残っている祭神の性質の認識とがずれていることもありうる。だとすれば、一体どちらを瀬戸比古神の性質とすればよいのか。

 とりあえず暫定的な案として、昔から現在に至るまで、瀬戸比古神社の祭神について人々が抱いていた認識を総合的に見て、性質を考えることにする。その際、論社の記録であっても、明確に論社であることが否定されていない場合は、それも考慮に入れる。たとえ論社の根拠がないことが後からわかっても、一定期間「瀬戸比古神社」と人々が認識していたとすれば、その神社の祭神を瀬戸比古神として考慮しても間違いではない。祭神は人間の認識から独立して存在するのではなく、人間の認識を中心として存在するため。


 さて、瀬戸比古神についてわかることは少ないが、中能登町瀬戸の論社の伝承によれば、まず荒魂である(『石川県羽咋郡誌』)。荒魂とは神の荒ぶる面を表す概念で、天変地異、病、争いなどに人を駆り立てるという。また、中能登町瀬戸、かほく市瀬戸町の両方で、黒川明神と呼ばれており、また中能登町瀬戸ではかつて相殿として黒川明神が供に祀られていた。このことから、黒川明神と深い関わりを持つと思われる。しかし、黒川明神がどのような性質を持つのかネットで検索したが分からない。

 また、志賀町直海では祭神が最初から素都乃奈美留命であるにも関わらず瀬戸比古神社を名乗ったので、それと関係があるか、あるいは同一なのかも知れない。素都乃奈美留命は越の国(越前・越中・越後・加賀・能登)の国造であるという。

 『式内社調査報告』に引かれる志賀町直海の瀬戸比古神社の社伝では、「「養老二年能登国ヲ置クニ当リ会々山上ニ魑魅棲息シテ凶毒ヲ流シ庶民大ニ之ニ苦ミシカバ勅使ヲ遣シ幣帛ヲ奉シテ退治を祈」つたところ、魑魅は退散し庶民は安堵し、除蝗攘疫には必ず当社に祈祷するやうになり」となっている。直海の瀬戸比古神社は化け物を退散させ、イナゴよけ、病気よけにご利益があったことになる。

 中能登町瀬戸の瀬戸比古神社について、『能登志徴 上編』の記述によれば、「此地は山間の谷合にて、瀬戸は狭門の意なるか」とある。瀬戸比古神は川の流れの狭門に宿るような神であろうか。


 以上を総合して勘案すれば、瀬戸比古神についておぼろげに性質が把握できる。しかし、全く別の神名であって、必ずしも瀬戸比古神と同一として認識されているわけでもない祭神、この場合では速秋津比古命・素都乃奈美留命についての記述まで、瀬戸比古神と関連付けて考えてもよいのだろうか。そもそも、瀬戸比古神という概念は志賀町直海とかほく市瀬戸町ではとっくに絶えてしまったのかもしれない(中能登町瀬戸では近世まで瀬戸比古神の記述がある)。

 しかし、概念が絶えたり大幅に変化していたとしても、論社だとすれば祭神の出発点は瀬戸比古神だから、瀬戸比古神の変化の一形態として捉えられるはずだ。
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百沼比古神

カテゴリ:祭神 [2009年10月13日 19時00分]
momonuma1
No.4
神名百沼比古神
九条家・武田本は「モモヌノ」、吉田家本は「モモヌヒコノ」、
現地の呼称は「モモヌマヒコ」
関連社名百沼比古神社 (志賀町百浦)
備考当社は百沼比古神、大鷦鷯命(明治42年に合併した若宮社の祭神)を祀る
かつての相殿に加茂別雷神

1 記載の収集
 記載は適当に旧字を新字へ改めています。

祭神 百沼比古神
相殿 加茂別雷神
里俗、加茂明神ト称ス、往古山代国下加茂ノ社領タルヲ以テ之ヲ勧請ス、但旧記・縁起等無之、社伝ノ来由未詳、旧神官無之、

百浦村ハ加茂ノ神領ナルヲ以テ加茂別雷神ヲ勧請シタル 著明ナリト雖、従来鎮座セシ百沼比古神社ノ相殿ニ勧請セシカ、式社ノ確証トスヘキ旧記無之ト雖、百浦ノ邑名ヲ以、徴証トスヘキカ、
(1)


此神社は今鴨大明神と称し、堀松村の神官宮谷氏代々兼務せり。百浦の邑名は百沼比古神の神号より起れりといへり。(2)


字百浦に在り、村社にして百沼比古、大鷦鷯命を祀る、式内社なり、嘗て加茂大明神と称せり、社伝に云く、往昔祭神桃の樹にて造れる船に乗りてこの土に着す、村名之に由りて起れりと、能登名跡志に百沼比古神社を堀松村字末吉に在りとするものは誤れり、この社の秋季祭を火焚祭(ほたこ祭)と称す、毎年境内の雑木及枝等を切払ひ、是を祭礼の夜神輿の還幸近づきし頃、境内の中央に積重ねて焚き、神輿を拝殿に納めて後は、青年団其の周囲を幾十回となく駈け廻り、時にはその火を高く散らし、時には火中へ踊り込む者さへありて観者甚だ多かりしが、今は境内の雑木減じたるため、二十年余前より其の伐採を止め、藁を以て代用することとせり。(3)


◇以下より転載
(1) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」63頁
(2) 『能登志徴 上編』155頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行
(3) 『石川県羽咋郡誌』877頁 日置謙・編/大正5年 羽咋郡役所・発行

◇その他参考文献
※ 『式内社調査報告』278頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 石川県神社庁HP内 百沼比古神社

2 所感

 石川県神社庁HPに、「古昔、百沼比古神、桃の木の船を召されて当村の海辺に着き給う」、「大神この地に着き給い、賊を平定、村民を愛し、農耕、漁獵の道を拓き遂にこの地に薨じ給う。村民御神霊を崇め祀りて祠を興す、これ百沼比古神社の創始なり、時に崇神天皇御宇と伝う」とある。奈豆美比神と同じように、祭神が「桃の木の船」に乗って「桃浦=百浦」に着いたという話である。

 『式内社調査報告』には、「古老の伝承にも、漂着した三神のうち兄神は百浦に、あとのニ神は現在志賀町の安津見(奈豆美比神社)と矢駄(加茂神社)に鎮座したといはれる」とある。この伝承では3つの神が漂着した、ということになっているが、奈豆美比神の伝承では4つの姫神が漂着したことになっており、少し違う。

 賊を平定し、農耕や漁労を開拓した、地方独自の神であろう。神績が人間の指導者の業績のようで、もしかしたら百沼比古という指導者が実在したのかもしれない、といつものことながら思う。

 しかし、『式内社調査報告』に「古老の伝承」とあるが、直接現地の古老から聞いたのだろうか。そうだとしたら名前を記して欲しい。もしくは、古老の伝承という形で、何かの本に記されているのだろうか。だとしたら書名を記して欲しい。また、『石川県羽咋郡誌』に、「社伝に云く」とあるが、社伝が所蔵されているのだろうか。だとしたら、本当は、それも見ないといけない。だが、自分にはそこまでのことはできない。
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奈豆美比神

カテゴリ:祭神 [2009年10月13日 19時00分]
nazumi2
No.3
神名奈豆美比神
吉田家本では「ナツミヒメ」、現在は「ナヅミヒメ」
関連社名奈豆美比神社 (志賀町安津見)
備考


1 記載の収集
 記載は適宜、旧字を新字に改めています。

一 奈豆美比神社 式内一社、同庄(※引用者注 加茂庄)内安曇村鎮座、祭神安曇氏祖神豊玉媛命、今称鴨大明神、(1)


神名帳書入本ニ、奈豆美は安曇也と註ス、能登誌頭註ニモ、奈豆美比は安曇姫ニテ、綿津見神の御子豊玉姫命ナリ、此神ノ鎮座シ玉フ故ニ、邑名ヲ安津見村と称スト、一説ニ、往古此地ニ安曇氏ナル人居住セシ故に村名トシ、社ハ其氏神ナリト云、但徴スヘキ旧記等伝来セスト雖、右等ノ古説ニ拠レハ、確証トスルニ足レリ、(2)


奈豆美比神は安禰姫にて、海神豊玉姫神なりと。故に今考えるに古事記に、海神豊玉毘売。神代紀に、彦火々出見尊、因娶海神女玉姫。仍留住海宮。已経三年。と見え、其一書には、忽至到海神豊玉彦之宮。とも、また豊玉彦遣人間曰云々。因以女豊玉姫妻之。などあれば、海神豊玉彦の御娘なり。姓氏録に、安曇宿禰海神。綿積豊玉彦神子穂高見命之後。とありて、安曇氏の祖神なりけり。

是も此国に安曇の氏人の居たるから祠りたる神社にや。
(3)


字安津見に在り、村社にして豊玉姫命を祭り、式内社なり、

社伝に拠るに、上古豊玉比命当大神は姫神三柱と桃の木船に乗りて、当国に着船し給ひき、此処を桃が浦といふ(※割注 今本郡の海辺に百浦村ありこれ桃浦の遺ならん)時に世草昧に属し、土民蠢愚にして山野開けず、田穀登らず、多くは鳥獣魚介を食とす、妖異の徒常に窟居して凶暴を恣にし、庶民寝食を安んぜず、その窟居の跡今に存するものあり、是を以て大神は矢居姫倉多姫命と共に今の地に、又多林姫命は西山に行宮を作り給ひ、先づ窟居の諸妖を膺懲して之を訓誡し給ひしかば、其の神徳に服して、山野次第に開け人民蕃殖せり、之を久しくして大神は当世国に帰り給はんとて、姫神三柱を此の土に留め、後世を鎮護せしめ給ひき、蓋し当大神を奈豆美比命と尊称し奉るは、大神窟居の諸妖を平定し、諸民を鎮撫し給ひし神徳を嘆美し奉りし名なりといふ、

又中古までは毎歳妙齢の美女を人贄となす例ありたりといふ
、(4)



◇以下より転載
(1) 『加能越式内等旧社記』(森田平次が白山長吏所蔵の古写本を謄写、明治前期頃)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」8頁
(2) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」62頁
(3) 『能登志徴 上編』152頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行
(4) 『石川県羽咋郡誌』920頁 日置謙・編/大正5年 羽咋郡役所・発行

◇その他参考文献
※ 『式内社調査報告』262頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 『石川県神社誌』283頁 石川県神社庁・編かつ発行/昭和51年
※ 境内の石版「奈豆美比神社の由緒」 田中外余成・著/設置年月は記載なし
※ 石川県神社庁HP内 奈豆美比神社

2 所感

 『加能越式内等旧社記』、『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』、『能登志徴 上編』、『石川県羽咋郡誌』の4つは祭神を豊玉姫神としており、現在の石川県神社庁HPでも豊玉毘売命としている。特に『能登志徴 上編』で森田平次は、豊玉姫神は安曇氏の祖神であるので、古代に海女部を統率した安曇の氏人が当地に住み着いたものと見ている。

 これに対して、『式内社調査報告』では、「元来、社名にいふ奈豆美比は奈豆美村に祀られた地方神だったのである」として、豊玉毘売は後世になって祭神が中央の神話に結び付けられたものと見ている。また、当地の名称、安津見は奈豆美の転訛であって、安曇氏と結びつけるのは付会であるとしている。

 そして、明暦2年(1656年)に安津見村の庄屋等が領主土方伊賀守に提出した「生宮由来明細冩」から、「祭神は天子様の姫君で、奈豆美姫及び多林姫・矢居姫・倉多姫の四姫が些細あつて桃の木の船に乗つて桃の浦(※引用者注 百沼比古神社 (志賀町百浦)がある百浦)に着岸した。そのうち多林姫だけは大坂村に留まり、他の奈豆美姫等はこの地に鎮まり給うたので奈豆美村、安津見と名付けたとある。」と引いて、これを古伝であるとしている。この話は『石川県羽咋郡誌』に引かれている話と同一だろう。

 当国に住んだ安曇氏の祖神と見るのが正しいのか、それとも奈豆美村の地方神と見るのが正しいのか素人では判断できない。だが、桃の木船に乗ってきた、という独自の話も伝わっているし、当地の地名はもともと奈豆美だったということなので、多分当地独自の神ではないかと思う。

 本当はここで、地名の変遷を調べて、「生宮由来明細冩」の原典も調べるのが、より正しい勉強だと思うが、そこまでできない。『式内社調査報告』に引かれていた他の引用文献として、度会延経の『神名帳考証』、伴信友の『神名帳考証』、『特選神名牒』がある。これも原典に当たるべきだが、そこまでは今はできない。

 他に当社の神事や祝詞を調べてみたり、神職に聞き取り調査をすればもっと理解が深まるはずではある。やるべきことはいろいろあるが、したいかというとしたくない。
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Author:t
男性。詳しくは自己紹介で。
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