『失われた時を求めて』について

カテゴリ:普遍的なこと [2011年07月23日 12時13分]
humurogoou3

 数年前図書館に通いながらプルーストの『失われた時を求めて』を読んだのだが大分苦労した覚えがある。随分つまらない話だと思った。

 筋書きそのものには全然興味が持てず、ヴェルデュラン婦人やシャルリュス男爵が延々と社交を繰り広げているな、としか思えなかった。筋は殆ど覚えていない。
 だが、時折、人生に対する考察のようなものが文章に混ぜられていたので、その箇所に付箋を貼っておいた。

 それらの箇所の中で、最も印象に残ったのは、第七篇「見出された時」の中での、記憶に関する考え方だった。ちくま文庫の『失われた時を求めて』10巻の320頁付近でそれについて話されている。
 引用するのも迂遠なので、自分なりにまとめるとすると、大体このようになる。

①我々が人生について把握する際、それは記憶を通して行われる。記憶の積み重ねによって大体人生の内容を把握している気になる。人生がつまらないものだと判断されるのなら、それは記憶の不完全さによる。
②人間の記憶は一面的で、人生の真の姿の一面を取り出し、それを取り囲んだ諸要素を切り離したものに過ぎない。だから、それらの記憶の積み重ねによって人生を把握していると思っていても、それは不完全な把握であり、まがいものを見て把握したと思い込んでいるに過ぎない。
③だが、何か(例えば触覚や嗅覚や味覚)を媒介として、突如として、一面的でない記憶を把握できることがある。それにより、人生の真の姿を把握できる。そこに幸福がある。

 かなり雑なまとめ方であって、特に③の部分は自分が誤解しているのではないかと思うが、とりあえず自分なりに暫定的に書くとするとこういうことになる。
 でも専門書などを読めばもっと穿った解釈がされているに決まっているけど。そういえばこないだ読んだ本の中では、プルーストは時間の外に出ることにより時間から開放される手法を示したのだ、というようなことが書いてあって、それも少し半理解状態ながら納得させられるような気もする。

2007年05月19日21:09


 無意志的想起という話が、人文主義地理学に使える。プルーストではマドレーヌによる味覚や嗅覚でそれが起こる、という話ばかりが有名だが、庭の敷石にけつまずくことでもそれが起こるという個所がある。場所が無意志的想起に関連しているので、それを自分で追及し、さらに追及の仕方を定型化すればそれらしくなる。
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継体天皇にまつわる神社

カテゴリ:福井県の神社 [2011年07月14日 22時05分]
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さびしさの効用

カテゴリ:身辺雑記 [2011年07月05日 20時49分]
oonosimoutinami2

 さびしさ ということは、情景のみならず、人間関係の希薄さも含むが、それが避けがたいものであるならば、解消の方向に力を使うよりも、それをずっと見続けている方が気がまぎれることがある。
 それで、さびしさ について書かれた本について。

①エリックホッファー『エリック・ホッファー自伝―構想された真実 』
 港湾労働者として働きながら哲学をしたホッファーの自伝で、人間関係は壊滅的に希薄ながらも、精神生活は強力に展開できることを示す。

②中島義道『カイン』
 人間には二種類あって、額に刻印を押された側(旧約聖書のカイン)であれば、劫罰を受けて死ぬまで孤独の中にあるしかない という内容。
 他に中島義道は『孤独について』で大学院の指導教官からのイジメを書き、『ウィーン愛憎』で孤独な海外生活を書くなど、社会性の低さに特徴がある。

③マルクスアウレリウス『自省録』
 人間には身の回りのことはどうにもできず、気の持ちようだけがどうにかできる と書いてある。気の持ちようを訓練していかなる場合も平静を保つようにし、他人をどうにかしようという考えは捨て、自己を改善しようという心持すら捨てることで、平安な心持になる。

④スタインベック『二十日鼠と人間』
 あからさまに社会不適応のため孤独な人間が死ぬはなし。


 このように、さびしさ 孤独について書かれたものを見続けていることで、何か見えてくることがある。それは、どうあっても毎日は苦しみであって、しかしそれを見続けることで内容を引き延ばし、他人の鑑賞に堪えるひとまとまりのものとして提示できるということ。
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場所と自己理解

カテゴリ:身辺雑記 [2011年07月03日 20時41分]
 プルーストの「失われた時を求めて」に、庭の敷石にけつまづいたことによって幼少時の記憶がよみがえる個所があるが、そのように、過去の記憶は場所によって記録されている。情報は人間の内部にあるというよりは、外部に半分依存している(アフォーダンス)という考え方も似ている。他に、嗅覚や味覚によっても記憶が思い出されるという描写が「失われた時を求めて」にある。

 このように、自分の過去の記憶を理解するためには、場所についての記録や、実際にその場所に行ってみることが役に立つ。地理は場所を扱うので、場所を通じた自己理解ということは地理の内容になる。また、その場所の記録と自己理解の過程を連続して書けば、自叙伝になる。ふつうの自叙伝は、散文(ふつうの文章)で書かれているが、場所の記録と随想を連ねていけば、散文の代わりに場所データを用いた自叙伝となる。

 ここまではいいが、重要なのは、場所をどのように分析し、さらに過去の記憶をどうまとめるかである。地理学には「景観」という概念がある。フンボルトの景観概念は植生を一瞥のもとに捕える、といった概念なので、あまり自己分析に役立たない。植生の一望よりは、むしろ①景観の要素を分解して、そのそれぞれに自分はどのような印象を持つのかを書く方が役立つ。

 また、過去の記憶については、②場所と関連づけた想起を散文で書く。それを①に付記する。それらを連ねていけばある程度の形をなすはず。

 改良するとすれば、①の要素分解である。地理的に場所を分析する味方として、さまざまなものがある(「等質地域」「時間地理学」「歴史地理学」など)が、むしろそのような、自分自身と関連しない複雑な要素を持ち出さず、自分の視覚や聴覚と言った一身に属しているものを取り出して分析することが必要になる。

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 まず第一段階として、どのような場所を扱うか、リスト化する。さらに、その場所を実際に尋ねてみることが必要になる。また、思い出したことの書き出しや、場所の分類も行う。
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Author:t
男性。詳しくは自己紹介で。
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