ファミリーコンピュータ
カテゴリ:身辺雑記
[2011年07月31日 10時50分]
け゛んしつのおくに し゛ょせいか゛いた。
おそろしいほと゛ うつくしいかおに
れいこくな えみをうかへ゛、
かのし゛ょは くちをひらいた。
「あのむすめは わらわのめとなり
みみとなり くちとなる。
わらわの ふ゛んしんとして
そとのせかいを しはいするのし゛ゃ。
し゛ゃまた゛ては ゆるさぬ。
そなたたちは ここて゛しぬか゛よい」
かのし゛ょのすか゛たか゛ ふくれあか゛った!
まるて゛ やみか゛しみた゛すようにみえた。
それか゛ つは゛さをひろけ゛たのた゛。
きょうふか゛ つきあけ゛てくる。
※ウィザードリィ外伝II http://hkaityo.hp.infoseek.sk/wiz/wiz2mes.html
健全とみなされがちな育ち方、たとえば、同学年の者を集めてはしゃぐ、自然との交わり、などに対して反感を抱くような気がするのは自分がそういう枠組みに収まらないからであろうと思うのだが、むしろ自分はファミコンが幼少期の育ちかたに深く食い込んでいると思う。
だが、それはマニアックな形での関係ではなくて、単に平均かそれ以下の量の体験でしかない。それほどたくさんソフトをプレイしているわけではなく、むしろ平均的だと思う。
だが間違いなくそれが幼少期の体験に大きな比率を占めているはずだから、それを無視できない。
「レオナルドのモナリザではなく、コルゲンコーワの店頭人形が、自分の内心に深く語りかけてくるという感じを持つ人がいるはずだ」(春日武彦『奇妙な情熱にかられて』(集英社新書)16頁より引用、しかしこの文章は鶴見俊輔『限界芸術論』(筑摩書房)からの引用だということで、ここでは孫引きになる)
そういうもので、茶に浸したマドレーヌよりも、ファミコンソフトが深く内面に関わりあっていることもあっておかしくない。
それで、自分の過去におけるファミコンに関わる体験を発見したり、反芻したりすることを趣味にしようと考える。発展や拡大や前進をすると疲れるから、もっと後ろ向きに生き、自分の過去ばかり見ていようと思った。だが、発見や反芻といっても具体的に何をすればいいのかよくわからないが、とにかくファミコンについて何か書いていれば何か見えてくるかもしれない。見えてこないかもしれないが。
とりあえず、ファミコンのRPGの文体が気になる。それは独特のものであり、容量不足ゆえにひらがなとカタカナを用いることしかできなかったゆえのものなのだが、独自の境地を表しており、いかがわしさを感じさせて楽しい。
手元にソフトも本体もないので具体的な引用はできないが、それを参考にして文章を書くとこうなる。
-----------------
ちょうげんせてき な ちつじょへの しんこうもなく
げんせてき な ちつじょにも せをむける という
このこと が どれほど しぜんなものか
それを おもいうかべさえ すれば いい
-----------------
*ムシル著 加藤二郎訳『特性のない男』(松籟社)Ⅳ巻116頁より引用
ここに、①ひらがなとカタカナのみ、②数語毎にスペースを入れる、という方法が見える。
文章が稚拙さをまとうというのとはまた違った感じ、つまり知性を過度に抑制されたような感じを出せるので、この文体で深遠めいたことを語ると迫力が出る。本来の力を無理やり矯められ、押さえ込まれてしまって、それでも何とか語っている、というような感じの文体なので見ていると多少楽しい。
(2007年06月22日21:00)
おそろしいほと゛ うつくしいかおに
れいこくな えみをうかへ゛、
かのし゛ょは くちをひらいた。
「あのむすめは わらわのめとなり
みみとなり くちとなる。
わらわの ふ゛んしんとして
そとのせかいを しはいするのし゛ゃ。
し゛ゃまた゛ては ゆるさぬ。
そなたたちは ここて゛しぬか゛よい」
かのし゛ょのすか゛たか゛ ふくれあか゛った!
まるて゛ やみか゛しみた゛すようにみえた。
それか゛ つは゛さをひろけ゛たのた゛。
きょうふか゛ つきあけ゛てくる。
※ウィザードリィ外伝II http://hkaityo.hp.infoseek.sk/wiz/wiz2mes.html
健全とみなされがちな育ち方、たとえば、同学年の者を集めてはしゃぐ、自然との交わり、などに対して反感を抱くような気がするのは自分がそういう枠組みに収まらないからであろうと思うのだが、むしろ自分はファミコンが幼少期の育ちかたに深く食い込んでいると思う。
だが、それはマニアックな形での関係ではなくて、単に平均かそれ以下の量の体験でしかない。それほどたくさんソフトをプレイしているわけではなく、むしろ平均的だと思う。
だが間違いなくそれが幼少期の体験に大きな比率を占めているはずだから、それを無視できない。
「レオナルドのモナリザではなく、コルゲンコーワの店頭人形が、自分の内心に深く語りかけてくるという感じを持つ人がいるはずだ」(春日武彦『奇妙な情熱にかられて』(集英社新書)16頁より引用、しかしこの文章は鶴見俊輔『限界芸術論』(筑摩書房)からの引用だということで、ここでは孫引きになる)
そういうもので、茶に浸したマドレーヌよりも、ファミコンソフトが深く内面に関わりあっていることもあっておかしくない。
それで、自分の過去におけるファミコンに関わる体験を発見したり、反芻したりすることを趣味にしようと考える。発展や拡大や前進をすると疲れるから、もっと後ろ向きに生き、自分の過去ばかり見ていようと思った。だが、発見や反芻といっても具体的に何をすればいいのかよくわからないが、とにかくファミコンについて何か書いていれば何か見えてくるかもしれない。見えてこないかもしれないが。
とりあえず、ファミコンのRPGの文体が気になる。それは独特のものであり、容量不足ゆえにひらがなとカタカナを用いることしかできなかったゆえのものなのだが、独自の境地を表しており、いかがわしさを感じさせて楽しい。
手元にソフトも本体もないので具体的な引用はできないが、それを参考にして文章を書くとこうなる。
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ちょうげんせてき な ちつじょへの しんこうもなく
げんせてき な ちつじょにも せをむける という
このこと が どれほど しぜんなものか
それを おもいうかべさえ すれば いい
-----------------
*ムシル著 加藤二郎訳『特性のない男』(松籟社)Ⅳ巻116頁より引用
ここに、①ひらがなとカタカナのみ、②数語毎にスペースを入れる、という方法が見える。
文章が稚拙さをまとうというのとはまた違った感じ、つまり知性を過度に抑制されたような感じを出せるので、この文体で深遠めいたことを語ると迫力が出る。本来の力を無理やり矯められ、押さえ込まれてしまって、それでも何とか語っている、というような感じの文体なので見ていると多少楽しい。
(2007年06月22日21:00)