百沼比古神

カテゴリ:祭神 [2009年10月13日 19時00分]
momonuma1
No.4
神名百沼比古神
九条家・武田本は「モモヌノ」、吉田家本は「モモヌヒコノ」、
現地の呼称は「モモヌマヒコ」
関連社名百沼比古神社 (志賀町百浦)
備考当社は百沼比古神、大鷦鷯命(明治42年に合併した若宮社の祭神)を祀る
かつての相殿に加茂別雷神

1 記載の収集
 記載は適当に旧字を新字へ改めています。

祭神 百沼比古神
相殿 加茂別雷神
里俗、加茂明神ト称ス、往古山代国下加茂ノ社領タルヲ以テ之ヲ勧請ス、但旧記・縁起等無之、社伝ノ来由未詳、旧神官無之、

百浦村ハ加茂ノ神領ナルヲ以テ加茂別雷神ヲ勧請シタル 著明ナリト雖、従来鎮座セシ百沼比古神社ノ相殿ニ勧請セシカ、式社ノ確証トスヘキ旧記無之ト雖、百浦ノ邑名ヲ以、徴証トスヘキカ、
(1)


此神社は今鴨大明神と称し、堀松村の神官宮谷氏代々兼務せり。百浦の邑名は百沼比古神の神号より起れりといへり。(2)


字百浦に在り、村社にして百沼比古、大鷦鷯命を祀る、式内社なり、嘗て加茂大明神と称せり、社伝に云く、往昔祭神桃の樹にて造れる船に乗りてこの土に着す、村名之に由りて起れりと、能登名跡志に百沼比古神社を堀松村字末吉に在りとするものは誤れり、この社の秋季祭を火焚祭(ほたこ祭)と称す、毎年境内の雑木及枝等を切払ひ、是を祭礼の夜神輿の還幸近づきし頃、境内の中央に積重ねて焚き、神輿を拝殿に納めて後は、青年団其の周囲を幾十回となく駈け廻り、時にはその火を高く散らし、時には火中へ踊り込む者さへありて観者甚だ多かりしが、今は境内の雑木減じたるため、二十年余前より其の伐採を止め、藁を以て代用することとせり。(3)


◇以下より転載
(1) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」63頁
(2) 『能登志徴 上編』155頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行
(3) 『石川県羽咋郡誌』877頁 日置謙・編/大正5年 羽咋郡役所・発行

◇その他参考文献
※ 『式内社調査報告』278頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 石川県神社庁HP内 百沼比古神社

2 所感

 石川県神社庁HPに、「古昔、百沼比古神、桃の木の船を召されて当村の海辺に着き給う」、「大神この地に着き給い、賊を平定、村民を愛し、農耕、漁獵の道を拓き遂にこの地に薨じ給う。村民御神霊を崇め祀りて祠を興す、これ百沼比古神社の創始なり、時に崇神天皇御宇と伝う」とある。奈豆美比神と同じように、祭神が「桃の木の船」に乗って「桃浦=百浦」に着いたという話である。

 『式内社調査報告』には、「古老の伝承にも、漂着した三神のうち兄神は百浦に、あとのニ神は現在志賀町の安津見(奈豆美比神社)と矢駄(加茂神社)に鎮座したといはれる」とある。この伝承では3つの神が漂着した、ということになっているが、奈豆美比神の伝承では4つの姫神が漂着したことになっており、少し違う。

 賊を平定し、農耕や漁労を開拓した、地方独自の神であろう。神績が人間の指導者の業績のようで、もしかしたら百沼比古という指導者が実在したのかもしれない、といつものことながら思う。

 しかし、『式内社調査報告』に「古老の伝承」とあるが、直接現地の古老から聞いたのだろうか。そうだとしたら名前を記して欲しい。もしくは、古老の伝承という形で、何かの本に記されているのだろうか。だとしたら書名を記して欲しい。また、『石川県羽咋郡誌』に、「社伝に云く」とあるが、社伝が所蔵されているのだろうか。だとしたら、本当は、それも見ないといけない。だが、自分にはそこまでのことはできない。
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