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瀬戸比古神 (附 黒川明神、素都乃奈美留命)

カテゴリ:祭神 [2009年10月14日 19時00分]
setobikokasima1
瀬戸比古神社 (中能登町瀬戸)

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瀬戸比古神社 (志賀町直海)

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瀬戸菅原神社 (かほく市瀬戸町)

No.5
神名瀬戸比古神
九条家本は「セノヒコ」、武田本、吉田家本は共に「セトヒコノ」
関連社名(A)瀬戸比古神社 (中能登町瀬戸)、(B)瀬戸比古神社 (志賀町直海)、(C)瀬戸菅原神社 (かほく市瀬戸町)
備考A社・C社は現在では主に速秋津比古命を祀る、B社は素都乃奈美留命を祀る

1 記載の収集
 記載は適当に旧字を新字へと改めています。

(A) 瀬戸比古神社 (中能登町瀬戸) 関連

瀬戸比古神社 式内一座、高田保川尻村地内鎮座、称黒川明神或云荒魂社、旧伝云、往古羽咋郡界嶺上鎮座、中古移転於今社地云、(1)


瀬戸比古神社 式一座 (鹿島郡鳥屋町瀬戸、旧郷社)
祭神 瀬戸比古神
今、速秋津比古神トス
里俗、黒川明神、或ハ荒魂ノ社ト称ス、旧記縁起無之、故ニ社伝ノ来由未詳、旧神官無之、

古キ社号帳ニ、瀬戸比古神社、黒川大明神ト記載ス、今モ里俗、黒川明神、或ハ荒魂ノ社トモ称セリ、邑伝ニ、荒魂ト云ハ則瀬戸比古神ニテ、黒川明神ト云ハ相殿ノ神ナリト云、
(2)


里俗、黒川明神、或ハ荒魂社と称す。

邑伝に、往古郡界なる山の絶頂に社殿有しを、中古今の社地に移転するよし口碑す。

邑伝に、瀬戸比古神は荒魂にて、黒川明神と云は相殿の神なりと云。故に祭礼等の節、神饌も二膳宛供ふる例なりとぞ。

此地は山間の谷合にて、瀬戸は狭門の意なるか
(3)

(B) 瀬戸比古神社 (志賀町直海) 関連

直海白山神社

此社今里人白山宮、或は多武(タブ)の御嶽と呼べり。社伝記に、直海保多武御嶽鬼門社云々。

当社神幸時の雑歌『たふとき神のわざはひさけて幸ひうけよこみのたみよこみのたみよ。
(3)


字直海にあり、素都乃奈美留命を祭る、式内と称すれども異説あり、社伝によれば、崇神天皇の世に高志国造(※引用者中 越国造)と定められたる素都乃奈美留命を祭れるものにして、社傍にある親王塚と称するもの即ち命の墳墓なる、古より瀬戸比古神社と称え、養老二年三月命の後裔、素都初正麻呂益師その祠官となる、

而して社僧は別に鬼門除神社又は白山神社と唱へ、神官は式内瀬戸比古神社と称して両神殿となる。
(4)

(C) 瀬戸菅原神社 (かほく市瀬戸町) 関連

此社をば或は式内瀬戸比古神社といふは非也。按ずるに。鹿島郡一青庄内瀬戸村は羽咋・鹿島の郡堺にて、此村の黒川明神をば式の瀬戸比古神社也、といへり。此瀬戸村の隣邑に黒川村といふもありて、瀬戸村の社ともよしありげに聞ゆ。(3)



◇以下より転載
(1) 『加能越式内等旧社記』(森田平次が白山長吏所蔵の古写本を謄写、明治前期頃)
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」11頁
(2) 『石川県神社誌(加賀能登式内神社等調書)』森田平次・著/明治7年 より
所載は『神道大系 神社編三十三』神道大系編纂会・編/昭和62年 神道大系編纂会・発行 中の「加賀・能登國」59頁
(3) 『能登志徴 上編』15、171、464頁 森田平次・著/昭和13年 石川県図書館教会・発行
(4) 『石川県羽咋郡誌』967頁 日置謙・編/大正5年 羽咋郡役所・発行

◇その他参考文献
※ 『鳥屋町史』733頁 若林喜三郎・編/昭和30年 鳥屋町・発行
※ 『式内社調査報告』241頁 式内社研究会・編/昭和60年 皇學館大學出版部・発行
※ 石川県神社庁HP内 瀬戸比古神社瀬戸比古神社瀬戸菅原神社

2 所感

 そもそも瀬戸比古神の神績を明らかにすることは難しい。現在の論社が祀っている神名はいずれも瀬戸比古神ではない。では、論社が祀っている速秋津比古命や素都乃奈美留命を瀬戸比古神と同一視してもよいのか、というとそうもいかない。論社であっても実は由緒が式内社と無関係という事もありうる。だとしたら安易に同一視すると、瀬戸比古神の性質を見誤ってしまう。

 また、たとえ瀬戸比古神社に該当する神社だったとしても、長い年月の間に祭神に対する認識が変化しており、平安時代の人間がその神社の祭神に対して抱いていた認識と、現在の記録に残っている祭神の性質の認識とがずれていることもありうる。だとすれば、一体どちらを瀬戸比古神の性質とすればよいのか。

 とりあえず暫定的な案として、昔から現在に至るまで、瀬戸比古神社の祭神について人々が抱いていた認識を総合的に見て、性質を考えることにする。その際、論社の記録であっても、明確に論社であることが否定されていない場合は、それも考慮に入れる。たとえ論社の根拠がないことが後からわかっても、一定期間「瀬戸比古神社」と人々が認識していたとすれば、その神社の祭神を瀬戸比古神として考慮しても間違いではない。祭神は人間の認識から独立して存在するのではなく、人間の認識を中心として存在するため。


 さて、瀬戸比古神についてわかることは少ないが、中能登町瀬戸の論社の伝承によれば、まず荒魂である(『石川県羽咋郡誌』)。荒魂とは神の荒ぶる面を表す概念で、天変地異、病、争いなどに人を駆り立てるという。また、中能登町瀬戸、かほく市瀬戸町の両方で、黒川明神と呼ばれており、また中能登町瀬戸ではかつて相殿として黒川明神が供に祀られていた。このことから、黒川明神と深い関わりを持つと思われる。しかし、黒川明神がどのような性質を持つのかネットで検索したが分からない。

 また、志賀町直海では祭神が最初から素都乃奈美留命であるにも関わらず瀬戸比古神社を名乗ったので、それと関係があるか、あるいは同一なのかも知れない。素都乃奈美留命は越の国(越前・越中・越後・加賀・能登)の国造であるという。

 『式内社調査報告』に引かれる志賀町直海の瀬戸比古神社の社伝では、「「養老二年能登国ヲ置クニ当リ会々山上ニ魑魅棲息シテ凶毒ヲ流シ庶民大ニ之ニ苦ミシカバ勅使ヲ遣シ幣帛ヲ奉シテ退治を祈」つたところ、魑魅は退散し庶民は安堵し、除蝗攘疫には必ず当社に祈祷するやうになり」となっている。直海の瀬戸比古神社は化け物を退散させ、イナゴよけ、病気よけにご利益があったことになる。

 中能登町瀬戸の瀬戸比古神社について、『能登志徴 上編』の記述によれば、「此地は山間の谷合にて、瀬戸は狭門の意なるか」とある。瀬戸比古神は川の流れの狭門に宿るような神であろうか。


 以上を総合して勘案すれば、瀬戸比古神についておぼろげに性質が把握できる。しかし、全く別の神名であって、必ずしも瀬戸比古神と同一として認識されているわけでもない祭神、この場合では速秋津比古命・素都乃奈美留命についての記述まで、瀬戸比古神と関連付けて考えてもよいのだろうか。そもそも、瀬戸比古神という概念は志賀町直海とかほく市瀬戸町ではとっくに絶えてしまったのかもしれない(中能登町瀬戸では近世まで瀬戸比古神の記述がある)。

 しかし、概念が絶えたり大幅に変化していたとしても、論社だとすれば祭神の出発点は瀬戸比古神だから、瀬戸比古神の変化の一形態として捉えられるはずだ。
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